伝説の道ウォーク(11/17)

昨日(2020.11.17)は、遍路道の草刈りの後、椿堂から切山の生き木地蔵へ至るルートを探りながら修繕作業を行う、伝説の道ウォークを行いました。

棒賀から切山へ上る下川切山線は問題なく歩けましたが、椿堂から山を越えて下川町の棒賀へ至る椿堂棒賀線は、予想以上に大変な道のりでした。

一夜明けた今日、スマホの位置情報のロケーション履歴とマップを照合して、昨日歩いたルートを解明しました。

 

椿堂を出発して192号線側の駐車場に出て、国道192号線を横切り、川滝公民館の西側の道に入ります。

金生川を渡ってゆるやかに上り始めてほどなく、椿堂棒賀線の起点に着きました。

舗装された椿堂射場線から左に分岐して坂を上り始めると、急な坂に変わります。

上にお墓があり、歩く人がいるようで、伸びた枝を切った形跡がありました。

お墓の傍から明和トライアル場へ上る舗装された道に入り、すこし上ると右側に椿堂棒賀線の林道があります。

ここは荒れ放題で、道に生えた木や草などを切除しながら上って行くと道が無くなっていました。

断念して引き返し、舗装された道を上って行くと堂ノ前公園の案内が設置されていたので、公園に寄り道しました。

景色がよく見える公園の北側に石鎚神社がありました。

舗装させれた道に戻って上って行いくと左側に長い林道の入口があります。

ここからが大変な道が始まりました。

行く手を阻む倒木は一個人で対処できず、道に生えた木を枝切り鋏で切りながら坂を上るもなかなか大変でした。

標高200mを超えるとゆるやかなアップダウンに変わり、やがて四叉路に着きました。

この流れのまま左へ進むのか、それとも右か・・・

この東西に走る道は平坦で一見歩き安そうな感じを受けましたが、その道を横切って下り坂の入口は誰も歩いていないような荒れ方でした。

直感で左へ、東へ進みましたが、これが間違いでした。

妨げになる木や枝を切りながら進むと、道が分からなくなり、杉林の中に細い道の痕跡を見つけて不安を感じながら進みました。

道が現れて、「大丈夫そうだ」と安心したのも束の間、道が途絶えて、廃墟と化した家屋が姿を現し、まるで不法投棄現場のような惨状にゾッとしました。

ここまで来て、道が間違っていることに気づいて引き返しましたが、その途中で道が消えて方向が分かり難くて迷いました。

ようやく四叉路まで戻り、荒れた下り坂を選択して、下っていくと、開けた平坦な場所に着きました。

一面、草刈りを行ったような感じで、人の手が入っていることは明らかです。

ここから下る道があるはず・・・

道を探すも枝葉に隠れていて、道を見つけるのに時間がかかりました。

荒れた林道を下ると雰囲気が変わりました。

右か左か・・・

左が本来の椿堂棒賀線ですが、徳島自動車道が通った影響で変わってしまっています。

左に進んで坂を下って見ましたが、徳島自動車道の手前で右に入るはずが、その道は無くなっていました。

結局、引き返して坂を上り、今度は右へ進んで坂を下りました。

徳島自動車道に沿って進む道、下川トンネルの手前まで下ってみましたが、徳島自動車道の下を抜ける道は柵で遮られて通れくなっていました。

仕方なく引き返して、橋を渡って徳島自動車道を越えて、棒賀集会所まで下りました。

なんとか棒賀集会所まで辿り着くことができて、ホッとしましたが、さすがに疲れました。

 

引き続いて、下川切山線を歩いて、切山ミニ公園休憩所まで上りました。

下川切山線は、切山と下川を結ぶ主要道でもあり特に問題なく歩くことができました。

切山ミニ公園休憩所に着いて、今回の伝説の道ウォークは終了し、徒歩で帰宅しました。

 

これで椿堂から切山へ道が通じていることを確認できました。

切山ミニ公園から生き木地蔵までは幾度となく歩いていますが、ちょっと気になっているルートがあるので、切山の住人から情報を得た上で、改めて歩いて確かめます。

 

さて、2020年3月、切山にウォーキングに出かけた際に、真鍋氏からこんな話を聞きました。

「椿堂から山を越えて下川の棒賀に下り、棒賀から切山へ上って生き木地蔵を拝した後、雲辺寺へ向かう遍路道がある」

この話を聞いて、実際に調べてみようと思い、今回の伝説の道ウォークを行いました。

「このルートを遍路道と称するのはどうかな・・・」

私は、このルートを遍路道という概念から切り離して検証してみました。

 

空海が、三角寺と仙龍寺、そして、椿堂を訪れたのは、弘仁六年(815)とのことです。

21日間の護摩祈祷を三角寺と仙龍寺で行っていることから、けっこう長い期間、この地に滞在していたと思われます。

そして、三角寺の真北の海岸付近(当時)にある村松大師堂に空海伝説が残っていて、この伝説も弘仁六年のことだと考えられます。

空海は、山に籠もりっぱなしだったわけではなく、村松大師堂と三角寺・仙龍寺を何度も往復していたのではないだろうか。

三角寺へ上る遍路道に「村松大師道」と記された標石が建っています。

三角寺と仙龍寺での護摩祈祷や修行などを終えた空海は、村松大師堂へ戻り、協力いただいたお礼にと「のぎよけ法」を伝授したのでしょう。

その後、石を飛び移って川を渡り、椿堂へ向かったと思われます。

その時に通った道は、阿波街道。

村松大師堂の前は讃岐街道、椿堂の前は阿波街道だったことから、空海が往還道を通っていた可能性が高いと思います。

椿堂で疫病封じを行った空海は、その後、どこへ向かったのでしょうか?

遍路道という概念では、雲辺寺ということになるのでしょうが、空海が雲辺寺を訪れたのは三年後の弘仁九年です。

弘仁六年時、空海は雲辺寺を訪れていないとすれば、箸蔵寺か?

しかし、箸蔵寺は天長五年(828)に空海が開創したとされ、弘仁六年から13年も後のことです。

切山の空海伝説は、弘仁六年、椿堂の後、空海が切山を経由して讃岐へ戻る途中で生き木に仏像を彫ったことに由来する、と考えれば、三角寺、仙龍寺、村松大師堂、椿堂、切山の生き木地蔵がすべて繋がります。

ちなみに、切山峠を越えて讃岐に入って田野々を抜けた先に空海が開創した萩原寺があり、後の江戸時代後期に下川の地に萩原寺の末寺「吉祥寺」が開創されています。

これも空海と下川の地との関係が萩原寺の僧侶の中で伝えられていたからこそ、わざわざ下川の地に末寺を開創したとすれば、椿堂⇒下川⇒切山⇒萩原寺という伝説のルートが浮かび上がってきます。

 

これはあくまでも伝説から連想したこですが、何かロマンを感じます。

このルートは遍路道ではなく、伝説の道と位置づけて、将来、地域のウォークイベントとして何か活用できればいいなと思います。

そのためには、道の修繕作業を続けて改善しなければなりませんね。

地道にがんばります!!!