椿堂ルート

検証『いにしえのへんろみち~宇摩平野と法皇山脈~』

コラム(6)椿堂ルート

(1)椿堂平山線

現在、ほとんどの歩きお遍路さんが、三角寺から椿堂を経由して雲辺寺へ向かっていて、三角寺から平山三角寺線を通り、平山から椿堂平山線を通って椿堂に至っています。現在、このルートが主流になっています。

ですが、検証『領家通路とへんろみち』でも述べましたが、明治初期に作成された古地図では、現在の椿堂平山線に相当するルートはおろか、領家に入ってから椿堂に通じるルートはまったく記されていません。また、あの宥辨真稔の著書でも、領家、田尾、葱尾、境目峠を経て雲辺寺へ向かっていて、椿堂を経由していません。これについては検証『領家通路とへんろみち』を参照してください。

現在、ほとんどの歩きお遍路さんが通っている椿堂平山線の領家から椿堂までの区間は新しく整備された道で、元々遍路道ではないことが分かります。

では、椿堂ルートはいつ頃通じたのでしょうか?

さっそく検証してみましょう。

 

参考:椿堂ルートマップ

(2)謎を解く標石

横川と領家の境付近を通る高知自動車道の高架下を通過し、椿堂平山線を進み、乙渕橋を渡った後、椿堂平山線から右に逸れて古下田集会所の方へすこし上り、農道に入って左へカーブすると標石が建っています。

この標石には椿堂と記されています。しかし、次の標石(領家道との分岐点の標石)には椿堂の表記はありません。前者と後者を見比べると、後者は刻まれた文字がすり減って判別し難いほど古い標石であり、前者の方が後者の後に建立されたことが容易に判ります。

さて、前者の標石はいつ頃建てられたのでしょうか?

標石には建立年が記されていることが多いのですが、この標石では確認できませんでした。そこで着目したのは願主の住所でした。

大阪南区日本橋筋四丁目・・・

最初は大阪市を略しているのだろうと勘違いしてしまいましたが、調べてみると、日本橋筋四丁目は明治5年から使われていて、大阪南区は明治12年の郡区町村編制法により誕生し、明治22年の市制施行により大阪市南区に変りました。すなわち、大阪南区日本橋筋四丁目は明治22年に消滅しているため、この標石は明治12年から明治21年の期間に建てられたことになります。おそらくこの頃、椿堂ルートが通じたと考えられます。

その後、明治38年、中務茂兵衛が椿堂ルートに標石を建てたのでしょう。

このルートが最初の椿堂ルートであると考えられます。

(3)もう一つのルート

椿堂の下の駐車場の端に標石が建っていて『椿堂遍んろ道通りぬけ』と記されています。文字通り右側の川に沿って少し上り、突き当りを左折すると山門と大師堂の間を通りぬけることができます。

そもそも山門と大師堂の間の道がかつての阿波街道でした。明治34年に建てられた標石(中務茂兵衛)から推測すると、この頃、阿波街道は駐車場側を通っていたようです。そのため、阿波街道から椿堂に入るための標石を建てたのかもしれませんが、たたそれだけの理由ではないように思われます。

この標石から国道192号線をおよそ150mほど下った場所に標石が建っています。

椿堂遍んろ道通りぬけ標石ともう一つの標石が深く関わっているのではないかと思われます。

 

この標石には『雲辺寺へ百三十五丁 三角寺奥之院へ各二里」と記されています。そして、標石が指し示す方を見ると何やら遍路道らしき坂道があります。もう一つの椿堂ルートが存在していたことを示唆しているようです。

さて、この標石が建てられたのは、昭和11年7月と記されています。あの二‣二六事件が起こった年、激動の時代に建てられた標石が教えてくれているルートとは?

実際に歩いてみました。

先に高台を通る椿堂ルートが通じた後、時代の移り変わりとともに新たな道が造られてゆく中で、椿堂平山線の前身となる道が造られたようです。ですが、昭和11年当時、原中から椿堂までの区間は通じておらず、原中の下手から阿波街道へ下り、雲辺寺へ向かっていて、阿波街道から椿堂に入る場所に椿堂遍んろ道通りぬけ標石が建てられたと考えられます。

そうであれば、昭和11年建立の標石と椿堂遍んろ道通りぬけ標石との関りが真実味をおびてきます。

おそらく椿堂平山線が整備されたのは戦後の新道路法以降になりますので、それまでは先に通じた高台を通るルートと原中の下手から阿波街道に下る下手ルートのいずれかを歩いていたのでしょう。

この2つの椿堂ルートが椿堂を経由する本来の遍路道であると言えます。

参考:下手ルート画像